北鎌倉の会席料理|家族の食事におすすめ
- -和食・会席料理-
- 鎌倉 鉢の木TEL.0467-23-3723
新型コロナウイルス
いつもご愛顧いただき誠に
ありがとうございます。
当店では、下記の対策を行っております。
今後も引き続き感染症対策に取り組みながら、
お客様とスタッフの健康と安全を第一に営業してまいります。
お客様にはご不便をおかけいたしますが、何卒ご理解、
ご協力のほどお願い申し上げます。
- ・店内アルコール消毒
- ・店内の換気
- ・店内に消毒アルコールの設置
- ・スタッフのマスク着用
- ・うがい手洗い徹底
- ・周りの方との距離の確保
- ・お客様へのアルコール消毒と検温のお願い
- ・CO2センサーとアクリル板の設置
- ・空気ウイルス除去剤設置
- ・空気清浄機設置
始まりは小さな
おにぎり屋として
BEGINNING
1964年 東京オリンピックの年、おにぎり屋として産声を上げた鉢の木は、二度目の東京オリンピックを迎えました。
創業当時は、お寺の門前で簡単な腹ごしらえが出来る店として、親しみやすい家庭料理-鉢の木でした。
時を経て、近年では、海外からの要人にも、本格的な和食をご提供出来るようになりました。
伝統に裏打ちされたおもてなしの心はそのままに、素材の持ち味を大切に、こだわり過ぎないお料理をご提供し続けております。
創業当時と変わらず、今後もお客様に寄り添った「丁寧な仕事」を大切にして参ります。
禅の里北鎌倉で、日本を体験
CULTURE
鎌倉、とりわけ鉢の木がある北鎌倉では、様々な和文化体験が出来ます。
茶の湯は、禅とも深く関わり、今や出汁・旨みという言葉と共に、海外にも広く愛好者が増えています。
更に当地では、華道・書道・俳句・短歌・陶芸・絵画等幅広く交流の輪が広がっています。
和食を楽しむとは、「美味しい」にとどまらない楽しみと共にあります。
禅のルーツ北鎌倉で、和文化に親しむ一日をお過ごしになってください。
鎌倉時代の食の再現「鎌倉時代食」や要人をお迎えした「賓客おもてなし膳」と共に、北鎌倉を味わい尽くしてください。
伝統的な和食はもとより、お持ち帰りや配達などで、節句や祝の節目と共に日常使いにもご用命をお待ちしています。
創業者 千葉ウメ UME CHIBA
はじめに
『鉢の木』の40周年に当たる今年、母親であり『鉢の木』の創業者である千葉ウメは米寿を迎えます。二つの祝い事が重なった佳きこの機会に、あの平家が店となり今日の『鉢の木』に至るまでのこと、そして母の来し方なども添えて形にしておきたいという想いが強くなりました。
ささやかな冊子ではございますが、出会いに感謝しながら綴られて来た『鉢の木』の物語を母の思い出話をもとに記してみました。お目通しいただければ幸いです。
平成十六年十一月吉日
有限会社 鉢の木
代表取締役 藤川譲治
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目次
出会いに感謝 『鉢の木』物語
- 第一章 鉢の木にウメの花咲く
- 『鉢の木』誕生
『鉢の木』店名の由来
創業当時のこと 初めての団体のお客様
仕事が仕事を教えてくれる
石の上にも三年
店の成長、息子の成長
- 第二章 働く喜び、生きる喜び
- ふるさと岩手の自然
ふるさとの食材、母の味
家事見習い、そしてホテルのメイドに
海外からのお客様
山中湖ニューグランドホテルへ
山中会の素晴らしいお仲間たち
- 第三章 『鉢の木』のおもてなし
-
ぜんざいとおはぎの秘密
映画のロケから生まれた木の実豆腐
抹茶ご飯
ろうけつ染め
お手玉
輪島塗り
梅かつおとちりめん山椒
婚礼の佳き日にあとがきに代えて
忘れえぬ日々
第一章 鉢の木にウメの花咲く
- 『鉢の木』誕生
- 北鎌倉の建長寺。北条時頼が建立した由緒あるそのお寺の門前の、小さな仕舞屋で私は思案に暮れていました。
明日からどうやって食べて行こう。一人息子の譲治はまだ小学生。姑もいます。皆の生活が私一人の肩に掛かっている…訳あって、そういう事情になりました。
すでに私は四十七歳。これまでずっと主婦として家庭の中の働きに専念していた私にとって、これから先、一家の大黒柱としてがんばっていくことなど途方もないことのように思えました。しかし、考えていても始まりません。いえ、考えている余裕などありません。私にできることをやるしかない、そう思った時、浮かんだのは、食べ物屋さんでした。
そういえば、私の家は、以前は奈良漬寿司のお店だったようで、私たちが住むようになってからも、まだお寿司屋さんをやっていると勘違いした人が入ってきて、こちらも驚いたことがありました。そんなことも思い出しながら、地の利は悪くない、という確信を持ちました。
そうはいっても、当時はこの辺りはほとんど店らしい店もない静かすぎるほどの場所でしたから、こんなところで商売をやるなんてと反対する人もいましたが、建長寺さんの門前でもあり、参拝客をあてにする気持ちもありました。
そして峠の茶屋ではないけれど、緑深いこの道を歩いてきて一休みするような店として、おにぎりに野菜の精進揚げを添えて出したらどうかしら…。それなら私にもできそうだと思ったのです。
やってみて、もし、だめだったら、その時は下宿屋でもやれば何とかなる、と腹をくくりました。決心したら後ろは振り返らないのが私の性分。早速店の開店準備にかかりました。
開店にあたっては、大勢の方にお世話になりました。いちばん相談のっていただいたのが大石正雄さん、恭子さんご夫妻でした。恭子さんとはろうけつ染めの仲間で、ご自分で商売をした経験があるというので、真っ先に相談したところ、会社経営をしている御主人の正雄さんも親身になって何かとアドバイスをくださいました。その後、物心両面において私が一番苦しかった時に支えてくださった、まさに『鉢の木』の恩人のような方々で、息子の結婚の際には仲人もお願いしたほどです。
- 『鉢の木』店名の由来
-
店の名前は、友人の間瀬さんが「建長寺の門前という立地だし、建物の雰囲気を見ても、『鉢の木』がぴったりよ」と勧めてくれて決まりました。歴史や仏像のことなどを研究するのが趣味だった間瀬さんは、謡曲『鉢木』にまつわる故事をよく知っていて、私の店の名に、と提案してくれたのでした。
ここに、当店の名前の由来となった謡曲『鉢木』にまつわる故事をご披露しましょう。−鎌倉時代のこと。ある雪の夜であった。
上野の国佐野の里に、源左衛門常世という貧しい男が暮らしていたが、そのあばら家に、道に迷ったという旅の僧が一夜の宿を求めてきた。常世は気の毒に思い、すぐに家の中に招き入れた。
しかし、凍えるような寒さであったが、貧しさゆえ囲炉裏にくべる薪がない。常世は櫃の中にわずかに残った粟を粥にして、僧にすすめた。
それでも体はどうにも温まらない。
そこで、常世はどんなに貧しくても手放さず家宝のごとく大事にしてきた鉢植えの梅、松、桜を切って、囲炉裏に火をおこしてくべた。そうして、暖をとることが、旅の僧への精一杯のもてなしであったのだ。
貴重な鉢の木を炊いた囲炉裏で膝を寄せながら、常世は我が身の不遇を僧に語った。
自分は一族の裏切りにあって今はこのような落ちぶれた身であると。
しかし、またこうも語った。
いかなる暮らしにあっても未だ心は御家人の忠誠を持っている。鎌倉にひとたび大事が起きたなら、一番にかけつけて命を捨てても幕府のために戦うつもりである。
翌朝、僧は「これほどの心のこもったもてなしを受けたことはない」と礼を言って立ち去った。
実はこの僧は、五代目執権北条時頼であった。時頼は出家して執権の座を北条長時に譲り、自分は諸国の御家人や民衆の実情を知ろうと、旅の僧の姿となってたった一人のお供を連れて諸国行脚の旅をしていたのだ。
幕府に帰った時頼は、上野の国の武士たちに「鎌倉の一大事、即馳せ参じよ」と命令を出した。すると、常世は雪の夜に語った通り真っ先に馳せ参じた。そうしてあの時の旅の僧が時頼だったことを知る。時頼は、常世の嘘偽りのない言動を誉め、また極貧の中にあっても見ず知らずの旅人のために最も大切にしていた鉢の木を燃やしてもてなした心を賞して、恩賞を与えたという。源左衛門常世が貧しさゆえに何もないながらも家宝の鉢の木で火を焚き精一杯のおもてなしをしたように、私も立派な板前さんのような料理は到底できないけれど、主婦として培ってきた家庭料理のおいしさを提供し、おもてなしの心を精一杯尽くしたいと思いました。『鉢の木』という名前はまさにぴったりのよい名前だと、すぐに気に入りました。そして後に新館が建った辺りは、出家した時頼が、住まいとした最明寺のあったところだとか―。不思議な因縁を感じずにはいられませんでした。 『鉢の木』の看板を作ってくれたのは、森岡澄さんです。森岡さんはアイヌ彫りの彫刻をしていた方で、当時はわが家の入口の土間を仕事場として貸していたのですが、事情を知って自分から看板製作を申し出てくれたのでした。アイヌ彫りらしい素朴さの中に情熱の感じられるすばらしい『鉢の木』の看板ができ上がりました。
- 創業当時のこと
- こうして、周りの方々の助けを得て、昭和三十九年二月二十六日、『鉢の木』は開店したのです。森岡さん作の看板を玄関脇に掲げ、戸口には私のお手製のろうけつ染めの暖簾を掛けました。
三角にむすんだおにぎり三個、ニンジンやゴボウ、インゲン、シイタケのかき揚げ、ナスの揚げたもの、揚げ田楽、などを盛った小さなざる。季節の野菜のおみそ汁。私が自宅用に漬けていた糠漬け。それらを半月のお盆にのせて、お客様に出しました。最初は二百五十円か三百円ほどだったと思います。
ところが、特別に宣伝をしたわけでもなく、ましてや私が風邪をひいたことで延び延びになった挙げ句の開店ですから、ここでおにぎり屋が始まったことなどほとんど知られず、お客様がなかなか来ません。建物の通りに面したところが店、奥は家族の住まいとしていましたが、姑はなかなか来ないお客を待っているのが辛いというので、近くのアパートへ転居することになりました。毎日やきもきさせて、疲れさせてしまったのでしょう。
開店休業状態のような辛い日が続きました。それでもぼつぼつと通りすがりに看板を見て入ってくれるお客様を相手に精一杯の仕事をして、根気よく店を開いているうちに日を追ってお客様が増えてきたのです。
手作りのおいしいおにぎりや精進揚げを出す店がある、と一度来てくれたお客様の口コミで評判となったようで、うれしいことでした。また、ちょうど東京オリンピックの年でしたが、この頃は高度経済成長の時代であり、ようやく日本人の生活にゆとりが持てるようになった頃でもありました。働きづめだった生活からレジャーという発想が定着しつつあり、鎌倉も観光地としてにぎわい始めました。雑誌などが「行ってみたい街・鎌倉」と特集を組む度に訪れる人が増え、当店もこうした観光客の姿が増えていきました。
そのうち、私一人の手には負えなくなり、近所の奥さんなどにお手伝いに来てもらうようになりました。それも臨時から、やがて常時へと勤務態勢をお願いするまでに、店の忙しさは増すばかりとなりました。
- 初めての団体のお客様
- わが家の裏に鈴木さんという大工さん夫婦が住んでおり、そこの奥さんもうちで働いてくれた一人でした。まだ二十一、二の若い方でしたが、仕事が丁寧でいて手早く感心したものです。おにぎりも私が三個握る間に鈴木さんは五、六個握ってしまうという具合。御主人にも、店の細々した修繕などをお願いすると、気軽に引き受けてくれました。
知り合いの姪御さんにも手伝ってもらったことがありますが、ある時、三、四十人の団体のお客様が急に見えた時のことです。まだ半分素人の私は途方に暮れてお断りしようかと思いました。ところが、その娘さんが「大丈夫ですからお受けしましょう」と言ってくれ、全員にお盆を出して対処することができました。懐石盆が足りない時は、近所に借りに走ったことも懐かしい思い出です。
困ったことといえば帳簿つけもそのひとつでした。私はどちらかといえばお金の計算には疎かったので、開業してからしばらくの間、大石夫妻が帳簿をつけたり、経理面の面倒をみてくれたものです。
開店して二カ月くらいたった頃でしょうか、ある学校のPTA役員の方々が来店し、お食事の予約をしたいとのこと。話を聞くと、五十人ほどというので、慌てました。「ありがたいお話ですがそれだけの人数をもてなすには十分な人手もなく、とても無理です」とお断りすると、なんと「私たちが朝から来て手伝いますから、是非受けてください」と言うではありませんか。それでお受けすることになったのですが、役員さんたちは本当に朝早くから来て手伝ってくれました。お客様に手伝ってもらうなど、まさに始めたばかりの未熟な店ならではのエピソードだと思います。
- 仕事が仕事を教えてくれる
- お客様の声を参考にして、工夫を重ねるうちに、料理についてもおにぎりと精進揚げのメニューから少しずつ種類が増えてきました。
こうして大勢の方に助けられながら、何とか店は毎日営業を続けていきました。この店は従業員やお客様に育てられ、そういう方々と一緒に歩んできたといっても過言ではありません。私一人で始めた小さな店が、だんだん北鎌倉のこの地で根付いていくようで、うれしくもありました。
そして、綱渡りのように毎日をこなしていくうちに、「できない」と言ってしまったらそれきりだっただろうことが、「できない」と言わないで一所懸命取り組むことでできてしまう力。どんなことも諦めず経験を積むうちに可能性が広がっていくことを実感するようになりました。仕事に教えられたといいましょうか。今でも、私の口癖は「一生懸命やっていれば仕事が仕事を教えてくれるもの」。長年変わらない私の、そして『鉢の木』の仕事の精神といえるかもしれません。
- 石の上にも三年
- ちょうどその頃、鎌倉在住の作家・永井路子さんがたまたまお店にいらしたことがあり、『鉢の木』を気に入ってくれたようで、永井さんの紹介で東京のテレビ局が取材に来ました。放映された内容は、まず店の正面が大きく映し出され、続けて、当店の料理が画面に出ると、永井さんがそこにコメントを加えるというものでした。「このかぼちゃ、おいしかったのよ」と永井さんが誉めてくださったかぼちゃの煮物も、私にしたらごく普通に煮たものなのですが、その素朴さがかえってよかったのかもしれません。
このテレビ放映の後、「テレビを観て」と言って足を運んでくださったお客様がずいぶんあり、売り上げも増えたものでした。
しかし、いい日ばかりではありません。どんな商売も波のあるもの、私の店もぱったりと客足が途絶えたことが何回もありました。商売の閑散期は二八といわれる通り、特に夏真っ盛りの暑い日は客足が遠のきがち。こんな時はとにかくあせってもだめ。じっと我慢するしかありません。大阪商人の言葉「商いは飽きない」とはうまいことを言ったものです。暇だからと放り出してはだめ、飽きたらだめ。暇な時は暇なりに工夫して過ごし、またお客様が来る時を待つのです。新しい料理を考案したり、お土産用に店先に並べるお手玉やろうけつ染めの制作に精を出しました。
こうして、商売の雨の日も晴れの日も経験していくうちに、この商売でやっていけると自信が持てるようになったのは、開店して三年目の頃だったと思います。昔から「石の上にも三年」と言いますが、本当にその通り。多い時には一日に四百人ものお客様がいらしたこともありました。その時の忙しさといったら、この小さな店に入れ替わり立ち替わりお客様がひっきりなしにお出でになり、私も店の者たちも一日中立ちっぱなしで食事をする間もありませんでした。それでも、お客様の応対をしている時は疲れを感じることもなく、動きづくめです。あのころの奮闘ぶりを思い起こすと、我ながら、若かったな、よくやったな、と今でも感心するほどです。 そうして、一度来てくださったお客様が次のお客様を連れて来てくださるようになり、年々店は繁盛していきました。
- 店の成長、息子の成長
- ずっと経理の面を見ていただいた大石さんの勧めもあって、昭和四十四年四月、店を『有限会社 鉢の木』として設立し、私が社長に就任しました。五年目でここまでになったことに感慨もひとしお、と同時に、社長という肩書きがずっしり重くもありました。しかし、こうして法人化したことで、「これでずっとやっていく」という決意を新たにもした身の引き締まるような思いをよく覚えています。
小学生だった息子も高校生になっていました。
母親の私はずっと働きづめで、息子には寂しい思いをさせてばかりだったことでしょう。朝は六時頃から夜は七時、八時まで店で働くばかり、学校の父母会などにもほとんど出られませんでした。 でも、食べていくのに必死で始めた仕事ですし、必死で働いた甲斐があって店は会社組織にまでなりました。経営者になると、お客様の信頼を得ることはもちろん大事ですが、加えて従業員への責任もあり、体がいくつあっても足りないほどです。頭の中は絶えず店のことでいっぱい。昼間、店で気にかかることがあると、夜中にふっと目が覚めてそのことを考えてしまいます。何日もの間、天ぷらにするおもしろい材料はないかなと思っていたのが、ふと、寝床に入ってから、タンポポはどうだろうと思いついて起き出してメモを取ることもあります。そんなふうに、睡眠時間が縮まるのもしょっちゅう。二、三時間の眠りを取って、朝起きるとすぐにその日の献立の下ごしらえにかかります。
それでも、私の働く姿を見て育った息子は、多感な時期も大きく道をはずすことなく、成長してくれました。
息子は大学卒業後、自らの意志でこの店の後継者の道を選びました。当時、うちの板前として働いていた射庭武治さんの紹介で、京都・岡崎の『美濃吉』さんでの修業を経て、『鉢の木』に入りました。 それからは経営の面でも力がつき、時代の波にも乗って、昭和五十四年には北鎌倉駅寄りに支店(現・北鎌倉店)を、平成二年にはさらにその隣に新館を開店するまでになりました。こうした一連の出店計画から実行までは息子の功労です。いつのまにかたくましく成長し、経営者としての才覚を著しており、もはや『鉢の木』の経営を支えているのは彼でした。全容を考えても、企業としての経営力がさらに求められる時期にもなっていました。そこで、平成四年、息子が社長に就任、私は会長職に退いたのです。
かつて、住まいの一角で始めた店は、今では北鎌倉に三店鋪となり、台山に建てた自宅で私は息子の家族と一緒に暮らしています。
それでも、相変わらず私は毎日出勤しています。店で働いている時がいちばん楽しいのです。いつまでも働ける健康に感謝、仕事を通じて恵まれたたくさんの出会いにも感謝するばかりです。
第二章 働く喜び、生きる喜び
主婦だった私が始めた食べ物屋ですが、幼い頃の故郷での体験や若い頃に経験してきたことすべてが、仕事に生かされるのだとよく実感いたします。『鉢の木』らしさをかもし出しているものは、そんな事ごとにも根ざしているのでしょう。そこで少し、そんな思い出話などもこの機会にお話したいと思います。
- ふるさと岩手の自然
- 店を始めた頃のわが家の周囲といえば、まだ建物が多くなく、野草や花がふんだんに息づいていました。フキノトウ、セリ、コゴミ、ゼンマイ、タラの芽などの山菜を摘んでは天ぷらなどちょっとした料理を作ったものです。スミレやタンポポをはじめ草花も色とりどりに咲いていました。
私はもともと花屋さんで売っている花よりも、野に咲く小さな花に惹かれます。店をやるようになってからは、おいしい料理とともに、常に季節の花を絶やさないよう心がけてきました。
こうした自然を愛する心は、山間の村に生まれ育ったことも影響しているかもしれません。
私のふるさとは、岩手県九戸郡葛巻村。青森県寄りの北部にあり、村を縦断するように馬淵川が流れる静かな山里でした。生家は土木業を営んでおり、私はそこの五人兄妹の長女として、大正五年六月一日に生まれました。役場への届けが六月ということですが、昔のことですから、ウメという名前からすれば三月か四ac月に生まれたのではないかと思います。
汽車に乗るには沼宮内という東北本線の小さな駅が最寄り駅、そこまで行くにはずいぶんかかったように記憶しています。
子供の遊び場は山や川。私は山歩きが大好きでした。一人でも平気で山に入って遊びました。
岩手は、民話のふるさとと言われるところで、部落にはそういう話の得意なおばあちゃんがいたものです。私もいろいろな話を聞きましたが、不思議と怖くありませんでした。「一人で山に入るとキツネにだまされるよ」ともよく言われました。実際、山の中でキツネに遭遇したこともあります。でも、私にとっては山は決して怖いところではなく、魅力の宝庫だったのです。春は山菜がいっぱい。ゼンマイ、ワラビ、シオデ、ノビル、ニラ、カタクリ。秋は栗拾い。山栗は小振りでも甘くておいしいので、せっせと集めました。栗がたくさん拾えるところ、キノコがたくさん生えているところ、などなど、山のことを自分の庭のように知っているつもりでした。こうした山の暮らしの知恵も、店づくりに知らず知らずに生かされたと思います。
- ふるさとの食材、母の味
- 父は人を使って土木の仕事をしていましたが、家族が食べるくらいの野菜を賄う畑をやっていましたし、ウサギ、鶏、豚も飼っていました。動物の世話は私たち子供の役目。周りの友達の家はほとんどが農家で、今日は麦踏みだと聞くと、私は嬉々として手伝いに行きました。
寒い土地柄、作物といえば、かぼちゃ、とうもろこし、じゃがいもなどが穫れました。りんごは作っているものもありましたが、たいていの家の庭先にはりんごの木が植えてあって秋には可愛い実がなりました。 蕎麦の産地としても有名なところです。つい先頃まで『鉢の木』の蕎麦はいつもここ葛巻産のものを取り寄せていました。
母にねだってよく作ってもらったおやつは、砂糖を使わずに塩だけで煮た塩小豆を、そば粉の練ったものに包んで焼いたもの。『鉢の木』を始めてから、その味を思い出して、塩小豆とそば粉で小さなお団子にしてお客様に出したことがあるのです。とても喜ばれ、さらに後日「糖尿病の父にも食べさせたいから作ってほしい」と再度依頼をいただき、せっせと作ったことを覚えています。
雪国らしい思い出といえば、まずそり遊び。木箱の底に板を打ち付けた手製のそりで、家の裏山の斜面を一気に滑るのです。裏山には柏の木がたくさん立っていて、スピードを上げつつ木にぶつからないようにそりの舵を取るのが腕の見せどころ。家の前に小さな川が流れていて、父が掛けた木の橋があったのですが、お転婆な私はそりでその橋から落ちたことがありました。
特別な行事の時は、大きな馬そりを山に押し上げて大勢で乗って滑ります。冬はこの馬そりが主な交通手段でもありました。学校帰りに知り合いの馬そりが通ると歓声をあげて追いかけて乗せてもらったものでした。
家の中には、土間をあがってすぐの部屋に幅一間くらいの大きな囲炉裏があって、一抱えもありそうな大きい木の根っこを常に燃やしていました。薪などよりずっと火もちがいいからでしょうか、一晩中囲炉裏の火の気は絶えなかったと思います。燃やした木の根っこは最後は燠といって炭のようになるんです。それで、魚やさつまいもを焼いて食べます。油ののったニシンなどを焼くと、いい匂いが家中に流れました。囲炉裏の上の天井から自在鉤を吊して鍋がかけられるようになっていて、調理はもっぱら囲炉裏端でしていました。マツタケを和紙にくるんで灰の中に埋めておくと実にいい具合に焼けておいしかったのも覚えています。専門的な料理は習ってはいませんが、食材を大切に生かし、味わう喜びは体で覚えていたように思います。
- 家事見習い、そしてホテルのメイドに
- 大自然と戯れ、温かな家族の中で楽しい子供時代を過ごした私は、学校を卒業すると、兄のつてで上京し、三菱の岩崎家の執事宅で家事見習いをすることになりました。やがて、そのお宅の御主人が箱根強羅ホテルの重役だったことから、そこで働いてみないかと言われて、移りました。二十二、三の頃のことです。世の中はきな臭い流れが感じられており、やがて戦争勃発。それから終戦まで、私はこのホテルに勤めていました。日本人の多くが空襲にさらされ、生活がどんどん苦しくなる時代において、私は隔離されたかのように、ほとんど外国人専用のようなこのホテルで、空襲を受けることもなく、物資の不足もあまり知らずに過ごすことになりました。
ホテルでの仕事はいわゆるメイドの仕事でしたが、今になって思うと、お客様へのおもてなしの基本はもとより、気配りやマナーをきっちり身につけられたよい機会でした。お客さまと廊下ですれ違う時はこちらが重い物を持っていても必ず一歩引いて黙礼し、お客様を先にお通しすること。お客様に食事などを運ぶ時は、自分の息がかからないようにお盆をしっかり捧げ持つこと。お客様に対してにこやかな笑顔は大切だけれど、むやみに笑ってはいけないこと。など、きっちり仕込まれました。あくまでもお客様のために、が基本。どんな時も自分が一歩引いて、という立場をわきまえる。それを頭において行動すると、自然と洗練された気配りができるようになるものだと先輩から言われたものです。
グラス磨き、階段の手すりの真鍮磨きなどもきれいに仕上げるプロのコツがあるのです。そういうさまざまなことを日々、体で覚えていきました。
仕事の合間には、お茶やお花のお稽古もありました。また、外国のお客様が多くダンスを好まれたので、時には私たち従業員も教えてもらったりして、楽しい雰囲気の現場でした。
- 海外からのお客様
- 私が働き始めた頃は日本がドイツやイタリアと同盟を結んで間もない頃で、裕福なドイツ人の家族が大勢滞在していましたが、やがて戦争が激しくなり、上からの命令でしょうか、ロシア人の外交官とその家族の収容所になっていきました。ホテルの方針で私もロシア語を勉強されられたものです。従業員も、若い男性には次々と召集令状が届き、最盛期には百人余りいたものがどんどん少なくなっていきました。
ロシア人は陽気で、毎晩のようにパーティーを開いて、にぎやかに過ごしていました。甘いものと紅茶が好きなようでした。紅茶は大きな角砂糖をかじりながら何杯も飲むし、チョコレート菓子などをよく食べます。当時、白い米はさすがに不足していたものの、小麦粉はあり、パンはよく焼いていました。
終戦の時のことはよく覚えています。ロシアの外交官の方々ですから特殊な情報網があったようで、終戦の一日前に「皆さん、喜びなさい。戦争が終わりましたよ」と私たち日本人の従業員に教えてくれたのです。そうわかっていても、あの八月十五日正午の玉音放送を聞いた時は、皆でわあわあ泣きました。
終戦とともに、箱根強羅ホテルは進駐軍に接収され、ロシア人は去り、アメリカ兵が来るようになりました。まさに時代の変化、世界情勢の変化とともに私のもてなすお客様も変わっていったといえましょう。
- 山中湖ニューグランドホテルへ
- 終戦後まもなく、私は山中湖のニューグランドホテルに派遣されました。そこも進駐軍に接収され、アメリカ兵たちの休暇用に使用されていました。箱根のホテルでずっとドイツ人やロシア人と一緒にいて、戦時中でも比較的不自由のない生活をしていた私たちにとっても、進駐軍の物資の豊かさは驚くほどで、クリスマスの頃などはチョコレート、バター、クルミなどが山ほど届き、私たち従業員にも分けてくれました。
お花を飾るのにも、山中湖から神奈川県の平塚まで、バス一台を貸し切って買い出しに行くのです。それは私の役目で、たった一人でその大きなバスに乗り、山中湖から平塚までバスに揺られて行きます。車窓から見る日本の人々は疲弊しきっていて、自分が別世界にいるような、一人だけバスに乗っていて申し訳ないような気持ちになったものです。いつだったか、あまりに疲れ切った様子でとぼとぼ歩くお年寄りを見かねて、運転手さんに「乗せてあげてください」とお願いしましたが、規則で他の人は乗せることができない、と首を横に振るばかり。何とも切ない思い出の一コマです。
- 山中会の素晴らしいお仲間たち
- この頃、ホテルで一緒にお仕事をしたお仲間に大野三夫さんがいらっしゃいます。のちにホテルオークラで千人ものお客様を覚え「○○様、ようこそ」とお迎えできるドアマンとして名を馳せ、ホテル業の接客最前線で後進に素晴らしいお手本を示され、活躍された方です。戦後の日本のホテル業の礎を築いた方ばかり。そんな素晴らしいお仲間とご一緒できたことも、私にとってかけがえのない財産です。
あれから早五十年以上が過ぎ、戦中戦後の貧しさと飢えに苦しんだ日本がこれほど豊かになり、ホテルの従業員の若い女の子だった私が自分の店を切り盛りするようになるとは…まさに時の流れのいたずら、運命のおもしろさを感じます。今でも年に一度、山中会のお集まりのご案内をいただきますが、最近は出不精になってしまって…。さまざまな分野で活躍されている方々に想いを馳せて、昔をなつかしく思い出しています。いくつになっても勉強、そんな新たな気持ちにもなり、お店で働くことの喜びもひとしおです。
第三章 「鉢の木」のおもてなし
- ぜんざいとおはぎの秘密
- お店を始めてしばらくして、食事だけではなくて、西洋料理にデザートがあるように甘味も置いてみようと考えました。でもお客様にお出しできるような当店ならではの甘味もなく、最初は和菓子屋さんから取り寄せていました。ところがある日、上野にある有名などらやきのお店を訪ねた時のこと。トラックが着いて、何やら仕事場へ運び込んでいます。閃く物があり、そっと見に行きました。運び込んでいたのは山のような氷砂糖。これがこのお店ならではの餡の味の秘密だと、思いました。さっそく帰って試してみたところ、それまでにない小豆が煮上がりました。さらに試行錯誤を重ねて、素朴ではありますが、これならばと納得できるぜんざいやおはぎができ、お店のメニューとなりました。「お土産にできないか」と言ってくださる方もあり、お陰さまで人気メニューとなりました。
今では季節の和菓子も当店の手作りでご用意できるまでになり、楽しんでいただいています。
- 映画のロケから生まれた木の実豆腐
- ある時、建長寺さんの境内で映画のロケがあると聞きました。ロケともなれば、スタッフは大勢だろうし、この辺りには食堂もないので、昼食時にはきっとうちの店に来てくれるに違いないと思い、豆腐を大量に仕入れました。ところが、仕出し弁当を用意したようで、ついにロケ隊は一人も来店することはありませんでした。期待は空振り。困ったのは、たくさんの木綿豆腐の始末です。夏の盛りでしたから、とても翌日までもちそうもありません。しかし、捨てるのはもったいない。その時に苦し紛れに思いついた料理法が、まず豆腐をザルにあげて水気を切り、当たり鉢でなめらかになるまで擦り、クルミや栗などの木の実を加えて、砂糖や醤油で味付けし、型に入れてオーブンで焼くというもの。これなら火を通すので日持ちしますし、さめてもおいしくいただけます。名付けて”木の実豆腐“。今では当店の定番メニューとなっています。
- 抹茶ご飯
- 強羅ホテル時代のこと。戦後まもない時期でしたが、お客様に不自由させるわけにはいかないので、私たち従業員は食事も質素なものでしのいでいました。しかし、たまには目新しいおいしいものが食べたいもの。いつもご飯にお醤油とじゃこはもう飽きたし、何か目先の変わったものはないかと戸棚を探していたら、以前、お茶のお稽古に使った抹茶の残りがあったのです。それを手にした私は、あることがひらめき、「ちょっと待っていてね、三十分もあればできるから」と皆に言いました。そして、大急ぎでご飯を炊くと、抹茶を少量の水で溶き、炊きあがったご飯に混ぜ込みました。新緑のような美しい色のご飯に抹茶のさわやかな香り、うすい塩味のご飯の出来上がりです。皆、大喜びで食べてくれ、私も大変うれしかったのを思い出します。 時は流れ、豊かな時代になった今、この抹茶ご飯は『鉢の木』の定番メニューになっています。抹茶ならではの色と香りの加減はなかなかむずかしく、コツがいるのですが、家ではできない絶妙な風味とお誉めいただいています。
- ろうけつ染め
- 商売を始める前から私の趣味だったろうけつ染め。本覚寺のご住職の奥様が先生で、いつも通うのが楽しみでした。布や革を使うものもやりましたが、私は木製品を染めるのがいちばん好きで、茶托、お盆、小引き出し、手鏡などの作品をたくさん作りました。
まず、草木染めの染料をあらかじめ作っておきます。そして蝋を溶かして下絵を描き、その蝋が乾いたら上から刷毛で染料を塗り、乾かします。さらに蝋で伏せたいところにまた染料をかけて乾かす作業を何度か繰り返し、仕上げには色止めの六化クロムの液を塗り、火にあぶって蝋を取り除いて出来上がり。私の好んだ図案はやはり草花で、自分で自由に描くのがいいのです。
時には夢中になるあまり夜なべまでして作ったろうけつ染めの茶托やお盆を店で使うようになったのですが、そのうち、お客様から「分けてほしい」という声が増え、お土産品として販売することに。各店の入口付近に、お手製のろうけつ染めの品々が並んでいるのには、そんな理由があったのです。
- お手玉
- 着物の端切れを使ってお手玉を作ったら、それも可愛いと好評で、お店のお土産品として並ぶことになりました。ちりめんなどの生地の模様を活かした五つのお手玉を袋に入れたセットになっています。お手玉の中身は小豆。虫食いを防ぐために、電子レンジで熱を通してから使います。
お手玉がよく売れて、材料が端切れでは間に合わなくなり、長襦袢用の反物を買ったことも。ある時、袋につける裏地にと手元にあった紅絹を使ったらとても可愛らしくできました。それが人気商品となったの、お客様からのリクエストもあってまた作ろうと紅絹の反物を探したのですがありません。
当時は白い裏地が流行っていたので、なかなか入手できなかったのです。そこで紅絹を染めてもらうことにしました。お手玉のために…とあきれられそうな話ですが、お客様のうれしそうな顔を思い返せば、なんとかして作りたいと思ったのです。いつも一所懸命、できるだけの仕事をして、喜んでいただきたい。お客様からそんな元気の源をいただいているのです。
- 輪島塗り
- 漆器のことを英語でジャパンというそうですが、本当にもっとも日本らしい器だと思います。
『鉢の木』ができて、七、八年した頃でしょうか。新聞に中国の漆が高騰したとの記事が出ていました。「早く揃えないと漆器が高くなる!」と思い、二、三日後にまだ大学生だった息子と息子の友人の三角幹男君にお願いして、輪島まで買い付けに車で出掛けました。たしか藤の花が咲いていたので、五月くらいだったのだと思います。今でもその時の輪島塗りの器を大切に使っています。もちろん、何度も塗り替えなどの修理をしながらですが。
日々のお手入れは大変です。夕方に従業員総出で、ひとつひとつ磨き上げます。洗った後、また二度拭きするのです。でもこうして手間をかけるからこそ、お料理もよくひきたち、おもてなしの気持ちも伝わるように思います。そして何より、従業員のみんなも労を惜しまず手をかけることの充実感を味わい、身につけていく様子がうれしいのです。
- 梅かつお、ちりめん山椒
- 梅の木のないお寺はないほど、昔から日本人に愛されてきた梅。早春の鎌倉を歩くと、そんな梅の甘い香りがどこからともなくいたします。
そんな梅の実を使った梅干しは、おにぎりには欠かせないもの。当店では毎年、どっさりと漬け込みます。その梅干しを使って何かご飯のお供によいものを、と考えたのが梅かつお。梅干しと血合いのない上質な鰹節を大きな鍋でゆっくりと時間をかけてから煎り、お醤油で味をつけます。おにぎりやお粥にぴったりの味、お土産品としても喜ばれています。今でもこれは私の担当。手塩にかけて作っています。
もう一つ、『鉢の木』のお土産品として一番人気のちりめん山椒も私の手作り。九州の型の揃ったよく乾燥したちりめんじゃこと、京都の実山椒をさっと炊き上げ、天日乾燥します。あたたかいご飯、そしてお酒のおつまみにも喜ばれています。
- 婚礼の佳き日に
- おかげさまで本店、北鎌倉店、新館と、三つのお店を構えるまでになりました。恩師を囲む会、敬老の日の家族会などのお集まりにもご利用いただくようになり、そうした思い出に残る会食をご用意させていただく喜びはまたひとしおです。
時には披露宴にとご指名くださる方もあり、少人数様の披露宴ならばと、精一杯つとめさせていただいていました。そして鶴岡八幡宮舞殿での結婚式が広く行われるようになった昨年からは、よくお問い合わせもいただくように。それならばと当店でも本腰を入れることになり、披露宴のためのチームを作ってより喜ばれる北鎌倉らしい披露宴をみんなで考え、準備をいたしました。どうなることかと内心どきどきしておりましたが、ひと組目の方の披露宴を垣間見て、『鉢の木』らしい披露宴ができたと、嬉しく思いました。
そして息子の代となり、婚礼の佳き日の席に使っていただけるまでになったことに、感慨深いものを感じました。
- あとがきに代えて
- 「今までの歩みを本にまとめてほしい」と息子に言われた時は、やはり躊躇いたしました。でも息子や孫たちへのメッセージとして記しておこうかしら、という気持ちになり、つらつらと思い出話をまとめてみました。
忙しくて振り返る間もなく今日に至ったものですから、記憶を辿るのはどこか新鮮で、楽しくもありました。どんな苦労も過ぎてしまえば笑い話。そう言える平安な日々が今あることに、感謝しております。
思い返せば、いつでもたくさんの方に支えられて、歩いてまいりました。本文中ではご紹介できませんでしたが、次の方々にもたいへんお世話になりました。
富岡畦草さん/定点写真で知られる写真家。『鉢の木』創業当時は人事院に勤務され、ガイドブックに『鉢の木』を掲載し広めていただきました。
射庭武治さん/『鉢の木』料理長として長年活躍。現在は自由が丘『竹生』主人。鉢の木新館の料理指導をお願いし今日のスタイルになりました。
故小島寅雄さん/元鎌倉市長、全国良寛会会長。新館開店当時から、鎌倉の文化のためならと惜しみない応援をいただき、支えていただきました。
菊池高夫さん/息子の同級生で、足かけ8年もマネージャーとして『鉢の木』発展のために貢献していただきました。現在は本牧『KIKUCHI』店主。
三浦勝男さん/国宝館館長。親子二代にわたりお世話になっています。鎌倉時代の食の再現など、『鉢の木』にいつもいい刺激を与えてくださいます。
このほか『鉢の木』の美術品や生け花を担当し、25年も務めてくれている久保喜美子さんをはじめ、いつの時代にも多くの従業員の働きのおかげで『鉢の木』の今日はあります。そして『鉢の木』を支えてくださる皆様、お客様に本当に、心から感謝しております。
創業40周年、そして私の米寿。こんな二つの佳き日を迎えられたことは、夢のようです。皆様と今後ともよきおつきあいをいただけますよう、心よりお願いいたします。ありがとうございました。
平成十六年十一月 吉日
千葉ウメ