北条時宗の没した翌年の弘安8年(1285年)に夫人の覚山尼が開山となり創建。開基は子の北条貞時です。代々名門出の住職が多く5世用堂尼は後醍醐天皇の皇女です。20世天秀尼は豊臣秀頼の娘です。覚山尼以来の縁切寺法は、女性救済の寺法で明治の初めまで続きました。鎌倉尼五山第二位の当寺も、明治36年以降は男僧の寺となっています。
駆け込み寺
入寺、縁切寺の名で知られています。縁切寺法を定めたのは、開山の覚山尼(北条時宗夫人)です。悪縁で苦労する女性を救う制度で、東慶寺で3年間修行すると離縁できるというものです。代々名門出の住職が多く、5世用堂尼は後醍醐天皇の皇女です。以後「松ヶ岡御所」と呼ばれます。
天秀尼 (てんしゅうに)
天秀尼 (てんしゅうに) は当寺20世の住職です。父は豊臣秀頼で、大坂城落城後に入寺します。養母は徳川家康の孫娘の千姫(天樹院)ですから、天秀尼が入寺の際、家康が彼女に何か望みはないかと聞きます。当時7才の天秀尼は代々の縁切寺法を存続して欲しいと頼みます。家康がこの願いを聞き入れた事により、寺格はさらに高まります。住職の行列では、大名行列でも道を譲ったようです。この寺法は、江戸幕府300年の間多くの女性を救い明治6年に民法ができるまで続きます。
加藤明成の一件
この事件は、天秀尼が住持の時に起きています。江戸の始めの事ですが、福島の会津藩家老 堀主水は忠臣ゆえに、若い城主加藤明成の非情な行いを諌めます。しかし城主に逆恨みされ、騒動になり家老は脱藩します。高野山に逃げ込みますが、追跡してきた明成の家来に殺されます。家老の妻子は東慶寺に逃げ込みます。明成は、天秀尼に妻子を差し出せと迫りますが、「男子禁制のこの寺に踏み込むとは何事ぞ。この寺に逃げ込んだ女性を守るのが私の務めです」と断り、幕府に直訴します。その結果、東慶寺は残り、加藤家はお取り潰しになります。これ以来、全国の諸大名はこの寺を恐れるようになりました。
松ケ岡宝蔵(宝物館)
松ケ岡宝蔵には、聖観音立像、葡萄蒔絵螺鈿聖餠箱(ぶどうまきえらでんせいへいばこ)、初音蒔絵火取母(はつねまきえひとりも)等の、国の重要文化財があります。聖観音は鎌倉尼五山一位の太平寺(廃寺)のご本尊で、戦国時代にこちらに預けられました。聖餠箱はイエズス会の紋章入りです。鎖国下の日本でしかも東慶寺に伝わっているというのは興味深いものがあります。他にも縁切状や古文書等が展示されており、一般拝観できます。
東慶寺墓地
墓地は境内の奥にあり、覚山尼、用堂尼、天秀尼の墓が並びます。また、西田幾多郎、高見順等著名な哲学者、文学者の墓も多く、境内裏山には広く世界に禅を紹介した鈴木大拙が居住した松ケ岡文庫があります。(非公開)