明月庵の名で永歴元年(1160)に、平治の乱で戦死した首藤俊道の子の首藤經俊が父の供養の為に創建。その後、北条時頼が康元元年(1256)に持仏堂として最明寺を、この地に開きます。時頼没後に子の時宗が禅興寺として再興。そして室町幕府関東管領上杉憲方が禅興寺の中に密室守厳を開山に塔頭明月院を復興。明治初年に禅興寺は廃寺、明月院のみを残し今日に至っています。あじさい寺として有名です。
あじさい寺
明月院はあじさい寺として有名です。戦後に挿し木して植え続けてきたアジサイが実を結び、昭和40年代の初めに「あじさい寺」の名前がつきました。6月の最盛期には境内に青一色の花が咲き誇ります。本堂の名前は「紫陽殿 (しようでん)」、堂内の欄間も四枚 (よひら)の花びらを模しています。アジサイを意味しているんですね。四季折々花の絶えない、鎌倉の花の寺として訪れる人の多い所です。
北条時頼
第五代執権、北条時頼は、30才で出家すると、この地に持仏堂として最明寺(自身の法名)を建立しました。建長寺は公的な寺で、こちらはくつろぎの寺として開いたのが始まりです。時頼は37才で没しますが、その3年後に北条時宗(時頼の子)が禅興寺の名前で再興します。建長寺と円覚寺の両大寺の間の寺という事で、建長寺開山・蘭渓道隆を開山に、円覚寺開基・時宗自身が開基の形をとりました。総門左手の奥に時頼の廟所と墓所が祀られています。時頼は、鎌倉幕府を磐石にした執権ですが倹約家として仁政を施しました。
上杉憲方
上杉憲方は室町幕府鎌倉公方第二代の足利氏満に仕えた関東管領です。憲方は、出家後に禅興寺の中に密室守厳を開山に、塔頭寺院「明月院」を復興しました。実は明月院という名は、この時が始まりではなく、平治の乱で戦死した首藤俊道の菩提を弔う為に、その子經俊によって「明月庵」として、この地に創建されています。足利三代将軍義満の時に、禅興寺は関東十刹の第一位と定められますが、明月庵は明月院と改められ禅興寺支院の首位に置かれます。禅興寺境内は競馬ができる程の広さで、現在の電車線路の辺まであったようです。また、相当立派な大池のある庭園もあり、四代将軍・藤原頼経も花見にやって来たりしていたようです。当時の権力者の社交場の寺でした。しかし、禅興寺は、明治初年には、廃寺となり塔頭「明月院」のみを残す事になりました。
明月院やぐら
明月院やぐらは、境内の開山堂横にあります。ここの宝篋印塔は、首藤氏の墓という説もありますが、塔の造りが室町期のものなので、上杉憲方の墓であるという説が有力です。やぐらの壁面には、釈迦と多宝如来そして十六羅漢と思われるものが彫られています。このやぐらは、明治初めの山崩れで発見された為に、規模も大きく保存性の優れた文化性の高いやぐらです。